河竹黙阿弥は1816年に日本橋の質商に生まれた、歌舞伎狂言作者の第一人者である。19歳で芝居脚本家を志して五世鶴屋南北に入門、28歳で二世河竹新七を継承する。天保の改革によって江戸三座が猿若町へと移転するに伴い、浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やした。つまり黙阿弥の創作活動の殆どが浅草で、生涯360編にものぼる作品を残している。上野や浅草を題材にしたものも多いのだが、「河内山」や「直侍と三千歳」は有名。のちに坪内逍遥は黙阿弥を「日本の沙翁」と称賛している。
河竹黙阿弥は1816年に日本橋の質商に生まれた、歌舞伎狂言作者の第一人者である。19歳で芝居脚本家を志して五世鶴屋南北に入門、28歳で二世河竹新七を継承する。天保の改革によって江戸三座が猿若町へと移転するに伴い、浅草観音境内の正智院地内に居を構えてからの約40年間を創作活動に費やした。つまり黙阿弥の創作活動の殆どが浅草で、生涯360編にものぼる作品を残している。上野や浅草を題材にしたものも多いのだが、「河内山」や「直侍と三千歳」は有名。のちに坪内逍遥は黙阿弥を「日本の沙翁」と称賛している。
Copyright © 浅草大百科 All rights reserved.