道の両側に芝居小屋が軒を連ね、多くの見物客で賑わっている、当時の猿若町芝居小屋の繁昌を物語る浮世絵が広重にある。猿若町芝居小屋は、天保末期から明治にかけて猿若町にあった。猿若三座とは、中村勘三郎の中村座、市村羽左衛門の市村座、のちに森田座となった河原崎座が、水野越前守の天保改革により日本橋から猿若町1~3丁目へ移され、この3つを称して付けられた。別称、江戸三座ともいわれていた。江戸歌舞伎興隆の場となり、芝居町をつくったのは日本でも初めてということから、三座にちなんで猿若町という町名まで生まれた。