弁天山-浅草寺弁天堂「関東三弁天」
浅草寺宝蔵門手前の右側に小高い丘の上に弁天堂があります。ご本尊は白髪のため、通称「老女弁天」と呼ばれていてご縁日の「巳の日」には法要が営まれ堂内に入ってお参りできます。
弁天山「時の鐘」
浅草寺境内から除夜の鐘を響かせる弁天山の「時の鐘」は、1692年に五代将軍徳川綱吉の命により作られた。正午前零時を期して最初に寺僧が捨て鐘を三つつき、続いて「百八会」の会員が1人ずつ交替でついていくのである。鐘の大きさは龍頭、鐘身あわせて総高2.12m口径1.16m直径1.52m。1945年の空襲で戦火を浴びるが無事に残り、鐘楼は焼け落ちたため1950年に再建された。上野と浅草の時の鐘は松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」にもある通り、あまりにも有名。尚、毎日午前六時にも時の鐘は正確に時報を告げる役目を果たす。
松尾芭蕉像と句碑
「くわんをんのいらか見やりつ花の雲」の句を上部に、下部に座像を刻む。泰松堂書・佐脇嵩雪画。「奥の細道」などで有名な松尾芭蕉は、寛永21年に伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。俳号の由来は、深川の小名木川のほとりの俳詣の道場、「泊船堂」に門人が芭蕉1枚を飢えたことからと伝えられている。「俳聖芭蕉」の名をほしいままにした松尾芭蕉は、元禄7年10月12日に旅舎で51年の生涯を閉じた。この句碑は、寛政8年(1796)10月12日に芭蕉の103回忌に、浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くに建てられたが、戦後この地に移建された。、碑石は欠損してしまい碑面の判読も難しい。
扇塚
「扇舞」供養塚。昭和39年花柳徳太郎氏が造立。
添田唖蝉の碑・添田知道筆塚(そえだあぜんぼう・そえだともみちふでづか)
らっぱ節、しののめ節により社会を痛烈に批判吟遊した演歌師添田平吉氏の「つきいだす鐘は上野か浅草か、往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋、誰を待つやら恨むやら、身をば欄干に投げ島田、チョイトネ」が刻まれている。昭和31年浅草の会・東京作家クラブの造立。添田唖蝉坊は神奈川県の大磯に生まれ、昭和19年2月8日、73歳で死去。本名は平吉筆名といい、唖然坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。明治20年代に壮士節の世界に入り、のちに演歌の作詞、作曲、演奏などで活躍していた。代表作には「四季の歌」などがあり、「浅草底流記」、「流行歌明治大正史」などの著書もある。添田知道は唖蝉坊の長男で、東京出身、77歳で死去。父唖蝉坊と共に演歌の作詞・作曲を経たのち、作家活動に入った。演歌の代表作品には「東京節」などがあるほか、新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」などがある。
都々逸塚の碑
明治百年を記念して造立。表面左下に亀屋忠兵衛とある。
聖観音真言梵字の碑
上部に聖観音の種字「サの字」。中部にオン・アロリ・キヤ・ソワカ・ボロン。下部に弥陀の種字キリーク。裏面に天保8年(1837)吉原仲之町、山口巴屋とえ建立とある。
普閑の歌碑
「かかるとはおもひさだめし・・・」の歌を刻む。嘉永5年(1852)建立。
鳩塚
境内の鳩豆屋が死んだ鳩の慰霊のため、昭和35年建立。