影向堂-十二支生まれ年守り本尊のお堂(ようごどう)
平成6年、浅草寺中興開山慈覚大師生誕千二百年を記念して建立された「影向堂」は内陣に聖観音菩薩像とその左右に十二支生まれ年の守り本尊八体の像が祀られている。影向とは影が形にしたがい、響きが音に応ずるように仏さまの大きなお力が、それぞれの人の機縁に応じて現れ、利益を与えて下さる事であります。十二支に応じて八体の影向尊がおられる。
聖観音菩薩 / 18日(せいかんのんぼさつ)
千手観音菩薩-子 / 17日(せんじゅかんのんぼさつ)
虚空蔵菩薩-丑・寅 / 13日(こくうぞうぼさつ)
文殊菩薩-卯 / 25日(もんじゅぼさつ)
普賢菩薩-辰・巳 / 14日(ふげんぼさつ)
勢至菩薩-午 / 23日(せしぼさつ)
大日如来-未・申 / 28日(だいにちにょらい)
不動明王-酉 / 28日(ふどうみょうおう)
阿弥陀如来-戌・亥 / 15日(あみだにょらい)
橋本薬師堂-浅草寺の末社(はしもとやくしどう)
薬師寺如来坐像を本尊とし、当初は観音堂の北方にあった。北薬師寺と呼ばれたこの堂は、慶安2年(1649)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に建て直し、塀にかかる橋にあったので、家光自身が橋本薬師寺と名付けた。そして、平成6年に現在の場所に移された。建物の概要は、桁行三間(約5.35m)、梁間三間(約5.10m)、屋根は上方を功妻、下方を傾斜にさせた入母屋造りに瓦葺で、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているなど外部はかなり変わってはいるが、浅草寺境内に残る堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で二天門などに次ぐ古建築である。堂内には薬師の十二の大願に応じて現れた分身「十二神将」像と冥界で死者の罪業を裁く十王像が奉安されている。「八」の日がご縁日です。
六角堂(ろっかくどう)
浅草寺最古の建築物(東京都有形文化財)
日限地蔵堂、木造単層・六角型瓦葺き造りの小堂(室町時代)。浅草寺最古の建築物で日限を定めて祈願すれば必ず霊験があるという「日限地蔵尊」を安置しております。1618年に建立。室町時代の建造物というのは大変珍しく、都内23区の中でも現存する唯一のもの。1994年、境内整備を理由に現在地へ移されるまでは、現在の影向堂辺りに位置していた。それを示すように、今でも南基壇上には元位置の明記がある。建物は木造の単層六角造り瓦葺き形式で、基礎は六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、下部には十一段の石積みをした井戸状の穴が掘られている。なお、本尊は日限地蔵尊、戦災、震災にもあっていないという非常に貴重な建造物である。
石橋(しゃっきょう)
この石橋は日光東照宮の神橋になぞられて造ったものだと言われている、全長3.3m幅2.2mの小松石造り。建造年代は元和4年(1618)だとされ、東京では最古の石橋であります。日光東照宮が出来たのは元和4年4月17日、同時に浅草寺境内にも東照宮を造り、家康を祀る東照宮を江戸浅草にも造り、一般町民にも参拝させようとしたものであります。その時同時に本殿・随身門・唐門、石橋などを造りましたが、寛永19年(1642)2月19日浅草寺本堂が焼失した時、江戸東照宮に類焼し焼け残ったのが、現在の二天門として残り、後に重要文化財の指定を受け、この石橋も往事の姿をとどめている。
阿弥陀如来像(銅造)
元禄6年(1793)浅草田原町理性院宗海の建立。「千日供養仏」と台座銘にある。寄進者数百名が蓮弁に陰刻されている。
宝篋印塔(銅造)(ほうきょういんとう)
宝暦11年(1761)日参講・塔婆講など千余名の寄進者の名前が台座に彫られている。
西仏板碑(さいぶついたび)
上部に釈迦の種字を配し、中央に仏像が彫られている。西仏板碑とは建立者の西仏が妻子の後世安楽を願って建てたものとされる。西仏は東鏡に名が見られ、鎌田三郎入道だという説もある。建立時期は不詳。様式からして鎌倉末から室町初期とされるが、1742年には暴風雨によって倒壊。1814年になって側柱を立てて支えられ現在に至る。上部が少し破損はしているものの、高さは2,2メートルと大きい。尚、板碑とは長方形の石板で作った塔婆の一種をいい、多くは上部が三角形で、仏像や釈尊を表す種子が刻んである。西仏板碑には童子が刻まれているが、子供の像が板碑にあるのは稀である。
三尊名号の碑
正面に南無阿弥陀仏、振り分けに観音・勢至両菩薩の名号を刻す。文政6年(1823)建立。上野屏風坂下の鹿島屋平兵衛の奉献。
尊勝陀羅尼の碑
仏頂尊勝陀羅尼を梵字で刻す。元治元年(1864)の建立。
聖観音菩薩像(銅製)
享保3年(1718)孝山義道ほか数十名で造立。「千日参供養仏」と台座に刻まれている。
一言不動尊堂
願い事を一つに限って祈ると霊験があると言われる。
六地蔵石灯籠(ろくじぞういしどうろう)
高さ2.3m、六角小松石造り。火袋に「六地蔵尊」を刻す。両側には幟が立ち、絵馬や玩具が付いており、参拝者は現在でも跡を絶たない石灯籠。六面にはそれぞれ地蔵尊が刻まれている。「江戸名所図会」によれば、以前は雷神門の外、花川戸町の入り口角にあったとされ、それは奥州街道すじにあたり、馬駕籠の発着場であったとしている。現在の場所に移されたのは1890年。小林兼吉の手による。建立に関しては、源義朝の浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする久安2年1146年説や、鎌田兵衛の寄立であるかどうかは不確かではあるが相当古いものであるとする戸田茂睡の説など諸説がある。(都旧跡)
三峯社
秩父三峯神社より勧請。
金龍権現社
銭塚地蔵尊堂