歴史文化講座

第9回 徳川家と浅草

槐の会セミナー

講師:墨田区教育委員会文化財保護指導者 五味一之氏

2003年2月で、徳川幕府が江戸に誕生して400年になります。徳川家が江戸に来なければ、浅草の町はここまで広がらなかったと思われます。徳川家と浅草の親密な関係は5代将軍綱吉の時代までで、その後は冷遇され、権力を持っていた武士達は浅草から離れていきますが、その代わり商人、庶民に支えられて発展していきます。徳川家と浅草の関係は江戸時代初期の段階に限定されます。

徳川家康が来るまでの浅草はどんなところかということを簡単にお話しておきます。観音様があって、そこから発展している町は全国にたくさんありますが誰かが観音様をつくってもってきたとか、お金を出しあって観音様を作ったのではなく「観音様が現れてくださった」というところが浅草の特殊性というものになります。浅草は観音様の門前町ということですが、歴史が始まって500~600年頃、奈良時代以前は小さな農村と漁村しかなく、浅草もそんな小さな田舎町でした。浅草地方が記録に残っている一番古い話は、ひでりが続いて民が非常に苦しんでいた時に金の龍が待乳山の地中深くから飛び出して天に昇り、恵の雨を降らせたという話が一番古い文献に出てきます。この後に観音様が現れてきます。漁師が漁をしていて3回網を打ちますが、3回とも魚は一匹もとれず、3回とも観音様が網に引っかかって出てきました。その観音様を持って帰りお祀りしたというのが最初です。これも仏様のご意志ととることもできますが、なぜここで観音様が川の中から出てきたかというと、たまたま隅田川は蛇行し、岩盤が固かったところに観音様が引っかかったというのが一番の理由だと考えられます。丁度今の駒形橋の辺りになります。上流のお寺で、仏様が流失したのかどうかわかりませんが、流れ流れて川下へやってきて、たまたま引っかかったということかもしれません。また、浅草は交通の要所でした。当時の日本は道路には力を入れておらず、物資を運ぶには、海運に任せるしかありませんでした。その陸上交通が発達していなかった時代でも平安京から東海道を通り、千住、立石を通って東北に行くための道が開かれていました。さらにここは物資が上流から入る、物資の集積場でもあり、賑わっていたところです。そこへ観音様が出てきましたから、観音様のおかげであるということでさらにたくさんの旅人や商人が集まり、ここに大きな町をつくっていきます。

最初、観音様は駒形堂に安置され、川の方、東側を向いていました。やがて一人の貴族が巨大な浅草寺をつくりあげる基を築きます。940年頃は平将門の乱が終わったあとぐらいになります。平将門をやっつけたのは平貞盛で、それをサポートしていたのが武蔵の国の国主のひとり藤原秀郷という人でした。平将門の乱を鎮圧したことが、評価され藤原秀郷は東北地方の国司になります。そして藤原秀郷の後、武蔵の国の国司になることを切望していたのが、平公雅という人でした。平公雅は観音様の前を通るたびに「観音様、なんとかしてください。私がえらくなったら立派なお堂をつくります」と祈願していました。そうしたら、これが上手くいき、平公雅は武蔵の国の国司になります。そして約束どおり9m四方の本堂をつくりますが、駒形のお堂の近くは川沿いのがけっぷちで危ないということで、今の本堂のあるところに建立しました。これが浅草寺の出発点になります。本堂ができた後、金堂や塔ができ、いまのような形に大きくなっていきます。またこのあたりには大きなお寺がなく、何度も火事で焼失し、建替えるたびに大きくなっていきました。

北条氏が戦国時代、江戸城に来たあたりから、浅草の町は変わります。江戸城の回りをつくる資材の集積地となり、町人が住み、観音様を中心に町ができていきます。最初は観音堂から駒形堂までしか町がなかったのがやがてぐんぐん伸びて浅草橋まで伸び、軒が連なって門前町になっていきました。天正17年(1589)には市の日が決められました。この頃にはまだ北条氏が秀吉と戦争をする前で、浅草湊に物資が運び込まれ、江戸館までへ行く南北の道がメインストリートとして完成され、たくさんの人が集まり、盛り場ができました。この頃のメインストリートは奥州街道、千住に抜けるまでの道が中心だったのです。現在は京葉道路沿いや、浅草道路沿いの東西の道がメインストリートですが、江戸時代初期までは南北がメインストリートでした。江戸時代の後半に越後屋呉服店が儲かるようになってから、東西の道が発展してきます。その頃には土木資材を運ぶ流れから、蔵前から江戸城に向かって米を運ぶ流れになります。

家康と浅草の関係は天正18年(1590)秀吉の命により、国替えで関東に移転させられた時からはじまります。当時、小田原の北条氏は抑えましたが、東北に佐竹、伊達がおり南の方でも言うことをきかない人もおり、まだあちこちで戦争がありました。医学も科学も発達していない時代、戦争に勝つために神仏に祈ることはとても大切でした。家康は戦いに勝つために祈るお寺をどこにするかを考えていました。最初に候補に上がったのは芝の増上寺です。増上寺は今ほど大きくはなく小さな庵でしたが、家康が松平の姓を名乗っていたころから、阿弥陀如来の浄土宗を信仰しており、その同じ浄土宗のお寺が増上寺だったからです。しかし当時、家康のブレーンの一人である天海僧正が観音様の伝説を持つ浅草寺を勧めました。浅草寺は仏様にえらばれたお寺でありこの浅草寺で祈願すれば必ず天下がとれると進言しとことにより、徳川の祈願所(寺)となりました。

お寺には祈願所と菩提寺の2種類があります。菩提寺というのは身内がなくなった時にお墓をつくって供養をするところです。祈願所というのはそこにはお墓はなく、仏様の力を信じてお願いごとをするところです。浅草寺を祈願所に選んだもうひとつの理由は港町として立派な港湾施設、港湾業者がそろっており、幕府を開いた時に東北勢を抑える海軍にもなり、東北勢をけん制する拠点になると考えたからです。表向きは勝利を願っての祈願所、もうひとつの面は軍事拠点として、非常にすぐれているという点で浅草を、徳川家にとって大事な町にしておこうと思ったわけです。天正18年(1590)にはこの一帯の、人、物資の流れすべてを味方にしたいと思い、幕府の祈願所として寺領11万5000坪を与えました。当時、家康はまだ天下をとってはいませんでしたが、関東地方を治める徳川家の祈願所ということで全国から人々が訪れ、またお坊さんや学者も集まり、町が活気づきました。関が原の合戦で祈願が叶い、その勝利を導いたのが浅草寺であるということが評判になったため、全国から人々が訪れるようになりました。当時はまだ飯屋、旅籠があるだけの町でしたが、観光都市としての浅草が誕生します。大きく発展するのはもう少し後のことになりますが。家康が祈願所と決めたので、御三家や大名も浅草寺で祈願するようになり浅草周辺に屋敷を建てる大名も出てきました。全国から米が集積され、蔵前に集められました。神田~浅草橋あたりに町人がすむようにもなりました。

家康の死後、2代将軍秀忠の時代は、家康を神様として東照大権現に祭り上げました。人気の高かった、浅草寺の中に東照宮をつくり、家康を拝みました。場所は現在の観音堂のうしろになります。最初に東照宮をつくったのは、増上寺の一角ですが、これは徳川家の菩提寺ですから、徳川家以外の人はお参りすることができません。そこで祈願所がある浅草寺に東照宮をつくり、庶民はもちろん御三家、大名、旗本、幕府の関係者と誰でも拝みに来れるようにしました。毎月17日が家康の命日で人が集まり、繁栄していきました。秀忠は父、家康の言うとおりに浅草を大切にし、江戸城の中にある東照宮を管理する紅葉山御宮別当職を浅草寺住職に兼任させるという特別の扱いをしていました。

3代将軍家光の頃には少しずつ変化が出てきます。家光は弟ばかりかわいがる父、秀忠に反発をし、秀忠が良いということを、大変嫌がりました。父親の愛情のうすい家光は天海僧正を慕うようになり、天海僧正の勧めで上野に寛永寺をつくり、力を入れ始めました。だんだん増上寺が菩提寺、寛永寺が祈祷所の要素がつよくなり、父への反発から家光は浅草よりも上野にあった東照宮で家康を拝むようになり、大名たちの足も浅草から遠のいていきました。秀光存命中は家光もおとなしく、水害が起きないように堀をほったり、寛永8年の火事の後の再建も行いました。しかし寛永19年の火事で本堂、東照宮が焼けてしまうとその頃には父、秀忠がつくったものを全て潰そうと思っていた頃で、再建はしませんでした。寛永の火事の時に焼け残った、随身門と六角堂だけは今でも残っています。慶安2年にはお寺を守る浅草神社を建ててくれますが、その後は何もしてくれなくなります。ちなみにその頃、浅草田圃に新吉原ができます。

5代将軍綱吉の時代には徳川家と浅草寺の関係は破局を向かえてしまいます。寛永寺と浅草寺は同じ宗派の中でもめていた時に綱吉が裁定を下します。そのきっかけになった出来事は浅草寺の境内でお坊さんが犬を殺したといううわさが耳に入り、生類憐れみの令を出していた綱吉の逆鱗に触れ、浅草寺を寛永寺の支配下に置くようになります。この頃から浅草の独自性が失われ、寛永寺との関係は江戸時代から明治、そして昭和の戦後まで続きます。ただ、綱吉は熱しやすく冷めやすい性格もあり、徹底的に弾圧をしようというのではなかったらしく、浅草寺で弁天堂のところに鐘をつくるときには協力したとも言われています。

8代将軍吉宗の時代では、また少し浅草が変化をしてきます。吉宗と言う人は暴れん坊将軍などで、庶民思いの人としてクローズアップされて知られていますが、本来はくだけすぎるのを嫌い、風紀を乱すことを嫌がり、健全を好む人でした。だから享保の改革で人がわいわいと遊ぶのを嫌がりました。たとえば、それまで浅草寺の境内を掃除していた人に店を出しても良いという許可が出て、それが仲見世の始まりですが、吉宗が来るまでは36軒ほどあったものが、吉宗が来てからどんどん減り、20軒位になっていきます。無駄なお金を使わせない政策で衰退していくわけです。そして常設の店の茶屋などは減り、仮設の見世物小屋や寄席が増えていきます。当時の江戸を紹介するガイドブックのような本の挿絵には浅草寺がたくさん出てきます。現在の仲見世というところには、当時は店はなく、浅草寺で学んだお坊さんたちの塔頭がたくさんあり、仲見世のあたりはお寺がずらっと並んでいました。そして晴れた日には、お寺の前によしずばりの店が出たそうです。

吉宗の改革の後、経済は苦しくなりますが、文化は発展していきます。また、徳川家と浅草のつきあいはなくなっていきますが、その後は庶民が浅草を育てていきます。寛永寺に勤めていたお坊さんの隠居所として安永6年(1777)伝法院が建てられます。そして寛永寺の別当代(別当の代理)が浅草寺の経理なども担当するようになります。この別当代が記録として残したものが、浅草寺日記と言われるもので現在、貴重な文化財になっています。
享保4年(1719)には10万人講を開き、大成功を収め、庶民の為のお寺に変化していきます。庶民向けにいろいろな建物、たとえば大黒堂、えびす堂、地蔵堂、薬師堂と、やおよろずの神が全部済むような形につくられた浅草寺に行けば、何でも願いを聞いてくれる、まるで万能薬のようになって、江戸中の人が来るお寺になり、徳川家の完全にお寺から庶民のお寺に変わっていきます。ある意味では格式は増上寺、寛永寺より落ちましたが、逆にそれが好まれることになります。長崎の出島から来ているオランダ人が宿泊していた日本橋の長崎屋が火事で焼けた時には、臨時の宿泊所として、浅草寺が選ばれました。将軍家としては、異人を増上寺や寛永寺に泊めたくはなかったので、浅草寺は丁度よかったわけです。その後、度々、長崎屋に泊まれない時にオランダ人が浅草寺に泊まり、またその外国人を珍しがる人たちが浅草に集まってきました。

浅草寺は常にいろんな状況の中で、人をひきつけるものを作り出していきました。文化10年(1813)に行われた、浅草寺境内での相撲は歴史に残るものとなりました。というのは通常は10日で終わるのが、天気や将軍家の都合で延びて47日もかかりました。そのことを面白がって、江戸っ子が浅草に集まりました。見世物小屋も町や観音様を壊しそうなもの以外は浅草に集まってきました。全国規模で浅草を知らしめたのは、天保の改革です。税収を増やすために庶民の贅沢をすべて取り上げますが、遠山の金さんが「全部取り上げると、暴動が起きるかもしれない、また人が働かなくなるかもしれない」ということで、芝居小屋だけを残すことにし、それまで江戸中に散らばっていた歌舞伎の三座が集まってできたのが猿若町です。他に楽しみがありませんから女性は歌舞伎に殺到し、男性は吉原に行きます。観音様にお参りをしてから遊びに行き、遊びに行った帰りにお参りをする、そしてそういう人達を相手に土産物が売られるようになり、全国的に有名なものが出てくるようになり、「とんだりはねたり」という玩具が江戸名物として登場したりします。

徳川家との縁はますますなくなりますが、浅草は庶民の町として賑わいます。江戸時代の終わりには新門辰五郎という人が輪王寺の宮様に気に入られ、宮様が伝法院に来たときに火消しが宮様の警護を行いました。また徳川慶喜が寛永寺で謹慎になり、その後水戸へ帰る時も、慶喜の身辺警護を行い、御用金の随行も行いました。また上野戦争のときにも寛永寺に行き、上野のお山の消化も行いました。その行動が多くの人に賞賛され、注目されました。明治政府からも大きな信頼を得て、浅草一帯の警備を任されるようになります。そして辰五郎がいたことで、浅草が注目され、またまた浅草に人が集まりました。

こうして昔は浅草のまわりは田圃ばかりだったのが、家がたくさん建つようになり、浅草界隈があこがれの町になっていきました。徳川家と浅草の蜜月時代は初めの家康、秀忠の時代までで、家光、綱吉の時代から徳川家は離れて行きますが、かわりに庶民という弱いけれども数があって、真実がたくさん含まれている人達に支えられて発展してきました。浅草の面白みはお参りして、食べて飲んで、遊んでということが全部含まれているからです。庶民と共にあるというのは浅草にとって大きな強みなのです。

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