2015年12月1日開催の浅草槐の会散策セミナーレポート
テーマ: 歴史好き観光客視点の浅草〜芝居町・吉原編〜
講師:堀口茉純氏
歴史好き観光客視点の浅草〜芝居町・吉原編〜
西徳寺は創建は大変古く、江戸時代初期の寛永期、三代将軍家光公の頃であります。その頃は本郷にあったのですが、創建から50年間で3回火事で焼けてしまったとのこと。五代将軍綱吉公の頃に現在の場所に移転されました。
関東の中でも大きな勢力を持っていたそうで、綱吉公は仏教を興隆されたということで名高い方で、奈良の法隆寺、東大寺、春日大社などを復興させました。法隆寺再興のための、出開帳を江戸で行った際、法隆寺から江戸に下った方がこの場所に逗留されたとのこと。
関東大震災でこの辺りは大きな被害を受け、西徳寺も焼けてしまったのですが、昭和5年にこちらの本堂が建ち、鉄筋コンクリートで椅子席が当時は珍しかったので新聞の記事にもなっています。
椅子には寄進されたお名前が入っているのですが、中村萬之助、波野千代とありますよね。先ほどお墓参りをしましたが、こちらは波野家ゆかりのお寺ということで、本堂を出たところの天水桶には吉衛門丈のお名前が入っております。
ご本尊は阿弥陀如来、台東区の中でもいちばん古いいわれのある立派な阿弥陀如来像です。やはり大変古い聖徳太子像もございます。
飛不動正宝院です。戦国時代に修験者がここで眠っていたところ、夢の中に龍が現れたとうところから龍光山という山号が付いたといいます。
また修験道に励む今後の旅の無事を祈るためにお不動様を奉納されたそうです。そしてこちらのご住職が大和国大峰山にそのお不動様を持って修行に行ったところ、一夜にして戻ってきて人々にご利益を授けたことから「飛不動」と呼ばれるようになったとのことです。
大鷲神社に着きました。お祀りしているのは、天日鷲命(あめのひわしのみこと)です。天照大御神が天之岩戸にお隠れになってしまい、神様たちが岩戸を開けてもらうために舞や音曲など楽しいことをするわけですが、岩戸が開いたときに、ある神様の持っていた楽器の弦の先に鷲がとまったことから、大鷲を神様にされたということです。 もう一柱の神様は、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。東夷征討の際、こちらに立ち寄られ戦勝を祈願し、当時は武器としても使っていた熊手を社前の松にかけて勝ち戦を祝った。その日が11月の酉の日だったことから、熊手は酉の市の縁起物とされているそうです。
吉原弁財天です。遊郭の楼主たちがお詣りしていました。関東大震災では火災から逃れようと、ここにあった池に人々が殺到して490人の遊女たちが亡くなったそうで、慰霊の観音さまがこちらです。七福神の弁財天は、吉原神社に合祀されていますが、ここのお社はだいぶ寂れていて、2012年に美大の学生さんたちがこのように、きれいに装飾されたのだそうです。 吉原遊郭にはかつて、玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社がお祀りされておりました。この5つの稲荷神社と吉原弁財天を合祀したのが吉原神社です。
一葉記念館に来ました。この辺りは、遊郭で働く人々の生活を支えるいろんな職業の方がいました。名作「たけくらべ」に登場する子どもたちは、一葉さんのお住まいがあった通りで暮らしていて、今でもご子息が住んでいらっしゃるそうです。 一葉さんのおうちは荒物屋で、他にも駄菓子だとか細々扱っていたようです。二軒長屋になっていてお隣が人力車屋さんでした。 こちらに来る前は本郷に住んでいたのが、全く違う文化圏に移ってこられて、かなり刺激を受けたといわれています。 ご両親は元々は山梨の農家のご出身で、駆け落ちで江戸に来たということです。幕末のギリギリ最後に同心株という武士の位を買って、なんとか最下級の武士になったわけなんですけど、明治維新で失業してしまうのですね。武士という身分はあるがとても貧しい家庭だったわけです。 一葉さんのお父さんと、夏目漱石さんのお父さんが職場の同僚で、一葉さんと漱石のお兄さんの縁談の話が持ち上がったのですが、樋口家には借金取りがしょっちゅう来るといって破談になったとか。 小さいころから文才が認められていたものの、お父さんが病弱で、お兄さんも早くに病死され、一葉さんは16歳という若さで戸主になって一家を養っていかなければなりませんでした。 文筆業だけでは食べていけないということで、21歳の時に本郷の菊坂から先ほどの飛不動の近く、下谷竜泉寺町にやってきた。そしてたった14ヶ月の間に「にごりえ」「大つごもり」「たけくらべ」といった名作を書き、24歳で病気で亡くなってしまうのです。この場所に来たということが、一葉文学を生んだということで、この一葉記念館には、一葉の生涯や物語の世界観が展示されています。
山谷堀公園を歩いています。正法寺橋とありますが、家康公がこの辺りを通った際、たいへんな美声が聴こえてくるので、どこだろうと探したら正法寺さんのお坊様で、戦勝祈願をしてもらったら関ヶ原の戦に勝てたということです。
待乳山聖天さまですね。江戸時代の本には、ここは古墳だったのではと書いてありますね。
猿若町に来ました。藤浪小道具さんは、市村座の座付きでした。元々は小道具は役者がそれぞれ工夫を凝らして作っていたわけですが、天保の改革で、どんどん豪華になっていくのはよろしくないということで、中村座、市村座、森田座はそれぞれ小道具を管理する場所をつくり、それが藤浪さんの始まりです。