講師:墨田区教育委員会文化財保護指導者 五味一之氏
浅草は、今でいう繁華街でした。しかし、硬い岩盤でできた山の手や本郷、寺島とは違い、荒川の下流に位置する湿地帯でした。隅田川はかつて荒川と呼ばれていましたが、水路が決まらず、非常に川が荒れ回ることから荒川という名前が付きました。
浅草周辺は川っぺり沼っぺりだったため、大正6年(1917)におきた大津波による川の氾濫では、水浸しになってしまった地域が出ました。この辺りの地域は、川の堆積土砂でできたところなので、少しでも大水になると水が溢れてしまう場所です。対岸の本所の方は埋立地でしたから、全域が浸水してしまいました。しかし、浅草は平地と台地から成り立つ、昔から岩盤の固いところなので、こうした災害はわずかしかありませんでした。特に浅草寺や鳥越神社辺りまでは、とても岩盤が固く、どんなに隅田川が荒れても崩れることがありませんでした。ですが、上野の方に行きますと、不忍池や洗足池などの大きな池がありましたから、地盤的には緩い部分もないわけではありません。もちろん、土壌改良をすれば、住宅なども建てられます。今でも墨田区の方だけでなく、台東区内も地下鉄を掘ると水が出てきます。
江戸幕府ができる遥か前から、浅草周辺には浅草っ子と呼ばれる人たちが住んでいました。対岸では寺島などの北の方には住めても、本所辺りはとても人の住めるような状態ではありませんでした。そういったところを埋め立てて、私たちは現在の科学技術で町を作り上げてきたのです。また、日比谷もジメジメとした干潟でした。海苔を養殖する際に、篠竹を海の中に差し込みます。これを“ヒビ”といいます。それをたくさん海に立てていたことから、日比谷と呼ばれるようになったんですね。日比谷から北の方には、鳥越、駒形、石浜、橋場が川沿いにあり、東の方には牛島、柳島、亀島などの島がありました。
浅草に人間が歴史を刻んだのは、628年(推古天皇36年)です。檜熊浜成・竹成の兄弟の漁師が、隅田川から観音様を引き上げたことから始まります。浅草は観音様の町なので、これを抜きにしては語れません。観音様は、江戸湾周辺の低地から最も北端に当たる、駒形堂辺りで引き上げられました。また、これより千住の方へ行くと、江戸というよりは近郷近在になります。北では石浜城が要となり、江戸の町を守るための大切な場所であると同時に、軍事拠点にもなりました。それは、現在の白髭橋が架かっている辺りよりも岩盤が固く安定しているうえ、川幅が狭いということから石浜の城が築かれました。
当時の江戸には、神田山がそそり立ち、武蔵野丘陵の突先には太田道灌が築いた江戸城がありました。しかし、関東にその名をとどろかせた太田道灌は暗殺されてしまいますし、町の様子はよくわかりません。
そして、いよいよ徳川家康が江戸にはいってきます。家康が江戸にはいってきた頃は、江戸城のすぐ下にまで江戸湾がはいりこんでいました。後に、家康が江戸城を直させて移り住みますが、そのときには浅草は、港としてもとてもいい場所だということでクローズアップされます。江戸城を修繕するには、石や竹などの多くの資材を運んでこなくてはなりません。石垣にする大きな石は伊豆半島から持ってきていたので、伊豆半島からも江戸城からも近く、さらに船もはいりやすいとして品川と浅草の港がたいへん貢献しました。しかし、房総沖の黒潮と親潮がぶつかるところで江戸湾に船を乗せるのは難しい時代。江戸時代後半では航海術が発達し、何の問題もなく浦賀水道から江戸湾へはいることができましたが、当時の風と潮任せの稚拙な海運技術では千葉県の銚子沖くらいまで流されてしまいます。そのため関宿辺りで交差して、川越の方から迂回する形で川を下って物資を運んできていました。
そして、運んできた物資を保管するために蔵が作られました。蔵前の地です。蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としての米などを保管していました。蔵前に入り切らないときには、川向こうの両国に米蔵を作り、そこに保管していました。いわば金蔵みたいなものですから、それを守るために大勢の警備が配置され、下級役人も暮らしていました。
ちなみに武士の給料は米で支払われていましたが、現金や生活用品なども必要ですから1/3は米のままで、残り2/3は現金などにしていたんですね。しかし、武士は刀で相手の首を取るのが仕事ですから、そろばん勘定をするのは武士の仕事ではないという意識があったため、例えば給料に米6俵を貰ってもどれくらいを現金にすればいいのか分からなかったんですね。そういう武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる札差という商人が出てきます。武士たちの米を保管するために、『○○○様のお米です』と米俵に木の札を差していったことから、札差と呼ばれるようになりました。札差は預かった米から手数料を引いて、米と現金を武士に渡していました。そして、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売ります。札差は武士と小売の両方から手数料を取るわけですから、たいへん儲かります。さらに、儲かったお金を武士たちに利子を付けて貸していました。ですから札差は大富豪となりました。また、両国を中心に蔵前商人は店を構えていたので、商人や武士たちの多くが浅草周辺に集まりました。中でも浅草は江戸で最も人が集中するところでした。
そうして、たくさんの諸国から人夫が集まり、江戸城の修繕を開始しました。大勢の労働者が集まるようになると、飯屋や銭湯、遊女屋などの娯楽も次々とできてきました。浅草には観音様がありますから、とても恵まれていました。花見や参拝などの信仰そのものが娯楽のひとつでもありました。こうして品川と浅草は、繁華街としてだけでなく宿場町としても大きく栄え、特に浅草は最大の繁華街となりました。また、資材などの大きな荷物を運ぶための牛車や伝馬を世話する博労(馬喰)が住む馬喰町や伝馬町も発達していきました。
しかし、後に明暦の大火が起こり、浅草側の方の町々が全て焼けてしまいます。江戸市民の1/3余りの人々が焼死してしまい、宗派も何も分からないため、宗派を問わずに埋葬してくれる諸宗山、無縁寺、回向院が作られました。のちには、誰がどんな宗派でもいいというわけにもいきませんので、管理上の問題から浄土宗が総監督することになりました。大勢の方が亡くなりましたから、お盆の時期になると両国橋はお墓参りの人々でたいへん賑わいました。幕府は2度と火事が起こらないようにと、両国橋周辺を広い空き地(広小路)にしていましたが、その客を見込んで「そこで商売をしたい!」という者が出てきます。民家は許可されませんでしたが、小屋掛けのみは許可されました。ですから、広小路は歌舞伎や飲食店などの小屋掛けでたいへん賑わいました。そうして、明暦の大火以降は建物が過密過ぎないように、川向こうや神田山を切り崩して日比谷や本所周辺を埋め立てたほか、浅草だけでなく東両国と西両国も繁華街になっていきました。
明治時代になっても「庶民の町」というのは変わりませんでした。この頃になると、山の手の方にはほとんど武士がいなくなりますが、粋な人間は本所や向島、浅草などで暮らしていました。浅草周辺に住む人たちはとにかく粋ですから、新しいものには何でも飛び付きます。誇るべき江戸っ子の性格は進歩的で新しもの好きなんです。しかし、ただそれらを観たりするだけでなく、人生、教養、生涯の中などさまざまなところに活かしていきます。
それから無性に人間好きです。自分たちと同じ境遇にいる者はみな同士だという意識があるますので、隣町の子だろうが何だろうが人を見るととにかく可愛がります。どこの人間だろうと分け隔てなく付き合う無類の人間好きなんです。身分制という縦の社会がしっかりしていますから、その分横の社会だけは分け隔てないバリアフリーみたいな感じです。
また、新入りをいびらないというのも江戸の心意気です。初めてやるんだから仕事を覚えるまではできなくて当たり前。だからこそ決して新入りはいびりません。指導の仕方に対して上司を怒ったり、権威を傘にする態度はたしなめることもしますが、江戸っ子は新しく入ってきた人間を非常に大切にします。そして、他人の領分は侵しません。餅を捏ねれば餅屋の右に出る者はいないという、餅は餅屋という言葉があります。人のことを考える(思いやる)というのも江戸っ子の心意気なんです。かといって、何でも他人任せというわけではありません。いろいろなことに対して興味は持っています。江戸っ子は自分で多くの知識を持っていても、口を出さずにじっと見ていることが多いんです。ただのおじいさんだと思っていたら実は水戸黄門様だった・・・みたいなこともなきにしもあらず。よそからきた人間にはとても分からない。それが江戸っ子の恐ろしいところです。とにかく江戸っ子というのはとても知識欲が高いんです。
外面を飾らずに内面を磨くというのも江戸っ子です。それを中心的に教えてきたのが寺子屋です。全国にある寺子屋の組織と違い、江戸の寺子屋の場合は教え方が上手く、町会が認めれば男女も問いませんでした。しかし、高齢者が何十年も前のことを教えてもということで世代交代などもありますから、あまり高齢者はいませんでした。ただ知識を伝えるだけであれば高齢者でもいいのですが、知識を伝えるだけでなく、教え、育まなくてはならないということから40代が一番多かったようです。そういった意味では、寺子屋の先生は本当に素晴らしかった。子どもにとって単なる先生ではなく親代わりなんですね。ですから、何か悪いことをすれば引っ叩かれもしますし、もちろん褒められもします。先生のいうことがきけないのは親のいうことをきけないのと同じ罰に当たるんです。ですから、江戸の子どもは非常に先生のことを大切にしましたし、先生も体を張って子どもたちを助けていました。そして、いろいろな教育をしていました。現在の教育システムのように、一斉に同じことを教えるのではなく、相手のレベルによって分けて教えていました。当時は1年ごとに1学年進級するという決まりもありませんでしたから、教えた知識とその知識を使いこなす方法まで覚えて、初めて一人前という見方がされました。例えば、その子が挨拶をした後に、何かを言うことによって初めて社会へ目が向いたと認識されました。読み書きやそろばんだけでなく、読む・聞く・見る・話すということができれば一人前として世に送り出していく社会でした。
では、江戸っ子の暮らしにとって大切だったのは何でしょう。まず大事なのは飲み水でした。生意気にも江戸っ子は、産湯に水道水を使っていました。多摩川から地下に長い水道管を通して水を飲んでいました。そういうことができたのも、1629年(寛永6年)に玉川兄弟が玉川上水を開削してくれたお陰なんです。千川上水、三田上水、本所上水とどんどん上水網が広がっていきました。その中でも一番肝心なのは将軍が飲む水なので、途中で薬物などを入れられないように将軍の上水路だけは特別でした。新宿までは上水路が表に出ていますが、新宿から四谷の水番舎というところから地下の水路に入り、後楽園を通ってきます。ところが神田川のところは渓谷が深いため、高低差がないと江戸城まで水を引けませんから、神田川の上に水道橋を作って水を上に通していたんですね。現在でも地名が残っていますが、昔は水道橋というのを作って千代田区側の方に水を流していたんです。それを江戸城の中まで地下に引いて、将軍が飲めるようにしていたんですね。江戸城周辺の地下にある堀水は、神田川から引いたものをそのまま飲み水にはしていませんでしたから、もし戦になって籠城しても多摩川が干上がらない限り、水がなくなるということはありませんでした。
ですから、浅草、本所、向島辺りは地下を掘ると今でも江戸時代の水道管が出てきますよ。しかし、今と違って圧力もかけていません。つまり、高低差がないため水が流れなかったんです。ですから、途中までは流れるんですが、本所の方まではなかなか水がいきませんでした。現在は曳舟川という通りになっていますが、もともとは飲み水の上水路でした。しまいには飲み水を諦め、荷物を運ぶ船を引いたことから曳舟川という名前になったんです。かわりに江戸城で将軍のために引いてきた水を、船で売りにきていました。徳川吉宗の時代から本所の人々は、一甕幾らと水を買っていました。朝になると水売屋が、きちんとその甕に水を入れにきてくれていたんです。当時は水が少ないため疎かにできませんから、飲んで余った水はきちんと甕の中に戻していました。それくらい本所の人は、飲み水にはとても苦労していました。その本所に比べると、浅草では湧き水などもありましたし、水道水も何とか流れてきていたのでおいしい水が飲めました。豆腐屋などでは今でもおいしい地下水を汲んでいるところがあります。
町を存続していくために一番大切なことは、まずはそこに大衆がいるかということです。それから住人の暮らしやすさ。ここに住んで良かったなと思わせる、居ついてもらえることを考えることが必要です。また、観光客には何度でも足を運んでもらえるような居心地の良さや、品物だけでなく心の土産も持たせてあげられるかどうかというのも大切なポイントになってきます。あとは町のオリジナルの売り物と安さですね。もともとは、天ぷら、握り寿司、芋羊羹などは浅草やその周辺のオリジナル商品だったんですが、現在では浅草にこなくても食べられます。ですから、どうしても欲しいものが浅草でしか売っていなければ、浅草までいこうと思いますから、販売網をどこまで広げていいかというのも考えなくてはいけません。
空、海、陸、地下とどこからでもこられるような場所であることや交通の便も大切です。昔は交通の便も無く、遠い距離でも歩いて町に行く時代でしたが今は違います。それから、観光名所なども建物の場所が分かりやすいかどうか。例えば、当時は観音様などそうそうない時代でしたから、観光客に観音様の場所を聞かれても、目印の大きな屋根は本願寺と観音様くらいしかなかったのでひと目でわかりました。また、今は仲見世という名残はありますけれども、当時はズラリと門前に商店が並んでいたので、欲しいものは門前に行けば全て手に入るということが分かっていました。かといって、不動産の問題などもありますから、町全部を整理するということは難しいですが、しかし、長々とややこしい道順を説明されても、説明を聞いている間に分からなくなってしまいがち、そういった意味でも分かりやすさというのは大事です。
以上のことが揃うと町が活性化されると言われていますが、浅草は江戸の町の中でも常にそれらをやってきたところなんです。また、昔の人は信心深いですから、お寺が並び墓地があるところは安心するんですね。そのため人々が次々と集まり、長屋がたくさんできました。当時は、一軒家を構えるというのはあまりありませんでした。長屋に越してくる際には、まず家を貸してくれるレンタル屋のところに行きます。そうすると、布団、枕、行灯などを全部貸してくれます。そして、引っ越すときにはそれらを全部売りはたいて出て行きます。荷物は風呂敷に包んだ衣類だけですから、時代劇などで荷物を積んだ荷車を引いて出て行くシーンがありますが、当時ではあまりないことなんですよ。残りの物は、しばらくするとレンタル屋が引き取りにきます。そして、また新しい人が入居すると鍋から釜戸の灰まで全部そろえてくれるんですね。火事が多いため、個人の財産を持っていてもみんな燃えてしまうので財産を残しません。ですから、住まいもほとんどが貸家でした。5年に一度は大きな火事で町中が焼け、2年に一度はどこかしらの町が焼ける小さな火事が起こっていました。火事が多いのが江戸の唯一の欠点でした。
では、そういう中で生きて行くためには、どのような生活をしていけばいいのか。当然、それにはルールが生れてきます。まず、武士がいますから身分制社会というのは崩せません。武士たちともめ事を起すと自分の首が危うくなることから、自然発生的にできた江戸仕草という他人に迷惑をかけないというルールがあります。例えば、雨の日に傘を差しながら狭い道を歩いていると、前方からも人が歩いてくるとします。すれ違いざまに、相手に濡れた傘がぶつからないようにお互いに傘を傾げます。そうすることによって、相手とのトラブルを未然に防いでいたんです。これは江戸っ子ならではのひとつの知恵です。武士にぶつかって、無礼打ちにされたら大変なことになりますから、そうならないように家庭でしつけられているんですね。
この根底にあるのが朱子学という儒教の教えです。例えば、長幼の序というものがありますが、長男を立てなくてはならない代わりに、長男は下の兄弟たちの面倒をどんなことがあっても看なくてはならないという義務が応じます。また、親は何十年に渡って社会で生きてきたわけですから、ある程度の社会の流れは見てきています。社会に出たばかりの何も分からない子どもたちにいろいろなことを教えてあげられるわけですから、本来なら親と子の間にも儒教的なものがあってしかるべきです。そういうのを一切なくして関わりを絶ってしまうと、何のルールもない無道徳、無秩序な人間が育ってしまう。それに、お年寄りをいたわるのは昔は当然のことでした。江戸には犯罪者などもたくさん居ましたが、極道だと言われていた人間でさえ、お年寄りをいたわり子どもなどの弱い者はどんなことがあってもかばっていました。それだけ、どんな人間にも朱子学が浸透していたんですね。
幕府は武士のためなら庶民が下敷きになってもいいというような考えだったのかもしれませんが、江戸後半になるとそんなことも言っていられなくなります。武士よりも町人の方が経済的に豊かになってきてしまったんです。そうなると武士の面子ともいっていられず、また武士のために忠実に働く町人も少なくなります。そして、幼子やお年寄りはかばうという庶民の暗黙のルールを幕府も承知していましたので、江戸時代の中期から後期にかけては、孝行者には直々に褒美を与えていきました。褒美をやることがいいことかどうかの問題はあるかもしれませんが、いい事をしたら褒めることは必要でしょう。幕府からすれば体制維持というのもあったでしょうが、病人は「切り捨てるべきた!」というそれまでの考え方も改めて見直されるようになりました。
さらに、徳川吉宗が八代将軍になると、貧しい者でも無料で養生できる養生所が作られました。また、定職にも就けないような者にも、無料でご飯が食べられるようお救い小屋も与えるようになりました。しかし、中には味を占めて食べるだけで何もしないという者も出てきます。そういった無宿や犯罪者は島流しなどにするのではなく、人足寄場という、更生させて社会の一員として世の中に戻すための更生施設に収容されます。ですから人足寄場には牢屋はありません。大きな部屋に数人ずつ入れられ、その施設の制服を着用し、男性には瓦職や大工職、女性には裁縫などといった技術を身に付けさせます。こういった更生施設は世界でも初めてのことで、長谷川平蔵、あの鬼平が考えました。後にイギリスのロンドンでも同じような更生施設を作ろうという案が出ましたが、日本ではその70年前から更生施設が存在していました。
また、規則正しい生活の中で一流の職人が教えるわけですから技術は間違いない。そして、きちんとその日の日当も付けさせます。現在の刑務所と同じですね。出所するときには、働いた分の給料は全額貰えますし身元引受人も紹介してもらえます。ですから人足寄場の紹介で来た職人は、お金も技術もある、とても役に立つ最高のスタッフだったんですね。大工としての手間賃だけでも一両くらいは稼いでいました。それだけ稼げれば、犯罪を犯す必要もないですから、自信を持って職人として生きていけました。時代劇では刺青をしている人を仲間はずれにするシーンを見ますが、よほどのことがない限りそのようなことはありませんでしたし、新入りにも優しく、いびることもありませんでした。技術さえしっかりしていればどんな人間とも気軽に親しく付き合うのが江戸っ子でしたから、人足寄場から出てきた人間でも十分に生活していけたんですね。
また、捨て子などの孤児が出たときは町名主が全責任を持って育てます。町内の人も世話をするので、その子どもにとっては町内の人全員が親なんですね。親が何十人もいるわけですから、普通の親子関係よりもかなり濃厚な関係になります。火事が多かったため、みなしごの数もとても多かったんですが、生き残った人たちは使命感に燃えて子どもを育てます。子どもの方も真剣に育てられるわけですから、実の両親は焼死していなくても、新しい両親を実の親のように思い慕っていきます。ですから、お互いに本当の親子のように育ちます。また、寺子屋も両親が居ようと居まいと教育には関係ありませんから、差別をせず平等に教育します。その代わり、細かいところまできちんと生徒を見ていますので、悩みがあればどんなことでも寺子屋の師匠たちが相談に乗ってくれました。
寺子屋の人たちが大切なこととして教えていたことのひとつに、人間には人それぞれの個性がありますから、全ての人に受け入れられるようなことはないということがあります。例えば、多数決で物事を決めることが多々あります。江戸時代にも多数決はありましたが、少数派の意見も大切だと思えば、多数決の意見を拒否してでも少数派の意見を通すくらいの個性を発揮するのが粋な江戸っ子だったんですね。ひとりでも反対派が出れば、意見を切り捨てたりせずに、その人が納得してくれるような方法を5年でも10年でも考え続けます。また、多数決で決まったものも見直しながら修正をしていきます。読み書きとそろばんだけでなく、人生の生き方やものの考え方などの哲学も教えるのは江戸の教育の特徴でもあります。下町の人たちが人間として当たり前にやってきたことが、現在ではとても貴重なことになってしまっている。町をキレイにしましょうという考えが残っているのも、浅草の下町だけではないでしょうか。そういうところも浅草の良さなんでしょう。
それだけでなく、人を育てるうえで無茶をするなということも教えていました。家康の言葉に「いかなる理由であっても争いは避けよ」というものがあります。どんなに些細なことでも、商売に差し障りが出るため争いは避けなければならない。平和だからこそ、商いは成り立つんだと家康は言っていました。争いを避け、商売を公平にするためには、相手の年齢・地位・職業は絶対に聞くなと言われていました。家康が庶民に望んだことは、「民衆は民衆のための商売をしてください」ということだったんです。過当競争をしますとみんな共倒れになってしまいますので、ひとつの町内に同じ商業主は3件までと決められていました。また、定休日も重ならないようにしていました。いわば協定ですから、定休日も同日にしなければ売上が揃わないというのもあるかもしれませんが、「利用する人のことを考えろ」と言う家康の言葉に対して、町人たちが考え出した結論です。
それから、町人全員に必ず自治に参加させました。お祭りなどの手伝いをさせるだけでなく、「お金さえ出せば町のことは一切関係ない」というのは認められないですね。それこそお金は少しでいいから、その代わり自治に参加して、町を良くするための知恵を出しなさいという感じでした。お金はださなくても知恵を出せというように義務付けられていたんです。どんな人でも参加させることによって、自分たちで決めたことは破るわけにもいきませんから、地域に対しての責任も出てきますし、町会のことへ目を向けざるを得なくなりますよね。
とにかく、いろいろなことに関して目に見えないものを大切にするのが江戸っ子でした。近所に同じ職種の店がオープンすれば、必ず相手の店を褒め、お互いに応援し合います。その代わり、自分も相手に負けないような商品を作るぞ!というような気持ちでがんばるんですね。町の景観は、全部町会の代表者が集まって決めました.。町の景観や品を良くするためには、みんなで協力しなくてはならない。江戸っ子が大切にしていた中で「気」というものがあるそうです。気持ちが落ち込むと弱気に、病になると病気になりますが、寝て休むと気も晴れて元気になるとか。そうやって気を吐きながら、江戸っ子は町を愛してがんばってきたのです。ですから、明治維新のときに勝海舟はものすごく恨まれました。公方様とともに300年近く安全に暮らしてきた町を薩長に譲った悪い奴だと言われていました。
武士の経済力がなくなったときに初めて、自治共和政のような形で江戸の町は繁栄してきました。更生施設や孤児院なども遥か昔からありましたし、商人が率先して町の自治や運営を決めるというのはベネチア共和国と同等といってもいいくらいでしょう。それくらいの権限を持って江戸っ子はこれまでやってきたわけですから、権力者である武士をも動かす力を持っていたことではベネチア共和国以上と言われています。
江戸は関東大震災で滅びました。太平洋戦争では、後を継ぐべき技術を持った職人や商人などが大勢亡くなりました。さらに高度成長が激しくなり、地上げなどでみんな地方へ出て行ってしまうなど、3度の打撃を受けました。そして、バブルが弾けて以降ずっと経済が良くならず、廃業に追い込まれる店も出てくるなど、現在は4番目の災難が降り注いでいます。
浅草が滅びれば日本が滅びるくらいの意気込みで、何とか乗り越えていただきたい。江戸っ子がやってきたいろいろなことの中には、取り入れられるものが幾つもありますので、昔の人の知恵を現代風にアレンジして上手く活用していただきたい。過去があるからこそ、現代があり未来へ続くわけですから、過去のものを捨て去るだけではなく使えるものはどんどん使っていきましょう。