講師:浅草観光連盟事務局長 荒井修氏
神田川にかかる浅草橋(元和二年〔1616〕に出来た)は江戸日本橋から奥州街道、日光街道、水戸街道へ、そして浅草寺や新吉原などへ行く重要な道筋である。江戸市民にとって府内と府外の交通上の要所であると共に、江戸城防衛の拠点ともなっていた。江戸市中にこうした場所が三十六ヶ所あり、これを江戸城三十六見附とも江戸三十六門とも言った。その三十六見附の1つである浅草見附は、浅草御門とも浅草門とも呼ばれていた。この門が出来る以前は今の日銀の有る常盤橋が浅草口で、さらにその外に出来た浅草見附は奥州・日光の街道口の第1拠点であった。この浅草見附門が出来たのは寛永十三年(1636)で、有名な明暦の大火があった明暦三年(1657)年には、小伝馬町にあった、いわゆる伝馬町の囚人も非難のため一時解き放ちになった。そしてその囚人達は浅草御門に殺到したのだが、見附の番人は脱獄と勘違いし、門を閉ざしてしまった。そのため一般市民も逃げられずに溺死者と焼死者が二万人出た。見附には門番が常駐しており、門の形は上から見ると桝形をしており、桝形式門といい、今の桜田門や大手門と同じ様式である。
浅草文庫跡の碑は榊神社境内にある。明治七年七月三十日、旧幕府米倉内に創設された官立図書館で、浅草文言呼んだ。蔵書は旧昌平坂書籍館から移したもので、和漢書一万四千冊を蔵した。一般の閲覧に供した。明治十九年上野公園内東京図書館(現、国立国会図書館上野支部)に併合され消滅。蔵書印は三条実美公の筆跡。もともと寛永年間に医師を対象にしたものが中心であった。八番掘りにあたる。浅草御蔵跡の碑は旧国技館の川べりにある。徳川幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買上米を収納保管した倉庫が、大阪・京都二条・浅草の三ヵ所あり、これを三御蔵といった。その中でも浅草御米蔵は特に重要で、旗本・御家人の給与米で勘定奉行の支配であった。
幕府の米蔵が出来たのは、今から三百八十年程前の元和六年(1620)で、当時鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川河畔を埋め立てて造成された。その敷地は参萬六千六百坪で今の蔵前電話局のあたりが倉庫である。旧国技館のあたりから電話局のあたりにかけて隅田川に向かって櫛型の掘割が作られ関東一円の米が隅田川を利用して運ばれてきた。倉庫は六十七棟三百五十四戸で、五十万石(百二十五万俵)収納できた。収納された米は幕府の備蓄米と、旗本や御家人の給料米で、幕府の侍達は年三回に分けてこの米蔵に俸禄米を取りに来た。しかし米の受け渡しに手間と時間がかかったため、代理人としてこれを受け取り米問屋に売り払いその手数料を得ることを本業とする商人を「札差」と言った。しかし彼らはいつしかその蔵米を担保として札旦那(旗本・御家人)に、金銀を融通し相当の利息を取り、ついに幕府の許可を得て札差株仲間を結成。当初わずか百九人でその権利を独占し果ては財政難で窮地に陥った武士達を尻目に豪勢な生活を営むに至った。武士御用達の金融機関です。米一石を一両とした時の札差の扱い高三十七万両は一年間の幕府の経費百五十万両の四分の一にも及ぶ計算になります。それだけでもすごいのですが、それ以上に驚かされるのは将軍直属の家臣である旗本・御家人のうち約二万人を数える蔵米取りの金銭の出入りを、百人ほどの札差が独占していたことです。札差たちは、そうした経済力によって、浅草蔵前に店を構え大富豪として、江戸の町を闊歩していた。彼らは吉原や柳橋で派手に遊び、「十八大通」などと呼ばれる代表的な遊びの通人まで現れた。「村田春海・桂川甫周・金翠・有遊・大口屋平十郎・暁雨大口屋治兵衛など」柳橋の花柳界は彼らの財力で江戸有数の花柳界となった。柳橋の名前は「柳原提の末にある故に名とするとぞ」と江戸名所図会にある。この櫛形の堀は八番掘りまであり四番掘りと五番掘りの間に首尾の松があった。
この首尾の松は蔵前橋のたもと、蔵前電話局の横にある。昭和三十七年に新しい松を植え、顕彰碑も移設して整備されている。辞書によると、首尾とは、初めと終わり、とか物事の成り行き、それから都合して男女が会うことと書いてある。名称の由来は説が3つあり、その一は、阿部豊後守忠秋家光の勘気を受けていたが、氾濫する隅田川を、この松の脇から首尾良く馬で乗り切り、勘気を解いたので、という説、2番目の説はこの松影に女性を乗せた船を寄せて首尾良く思いを遂げたという説、そして3番目の説が、海苔を取る、ヒビがこの付近にいっぱい立っていたので、ヒビがなまって首尾になったという説がある。どの説が正しいのかはっきりしない。首尾の松の初代は安永年間、(1772から1780)だと言われている。現在は7代目。江戸前期に隅田川に架かっていた橋は上流の千住大橋を除くと、両国橋・新大橋・永代橋の三つだけでした。江戸後期になっても、安永三年(1774)に吾妻橋だけである。人口百万を越す巨大都市であるので、夕涼みの橋のそぞろ歩きは、どの橋も大変な人手であった。そこで両国のような東西の橋詰めが盛り場のところは、夕刻になっても店を閉めず夜間営業を行った。
もともと花火は火薬の配合を学んでからなのであろうから、中世末の鉄砲伝来以降のことであり、観賞用の大花火が発達したのは江戸時代に入ってからである。寛文十年(1670)七月の江戸町触れには、
1) 町中での花火の打ち上げは禁止する。
2) 最も大川筋や海手にての打ち上げなら構わない。
3) 但し、大規模な大からくりや流星は、何処であっても一切禁止する。
したがって、通常の花火は江戸前期から隅田川筋で行われていたのである。隅田川で始めて花火を打ち上げたのは享保十八年(1733)五月二十八日だった。八代将軍吉宗は全国的飢饉や悪病の流行など、暗い世相を何とか打開しようと、水神の慰霊祭を行い、花火を打ち上げた。「両国川開き」年表によると、五月二十八日、両国川開き大花火大会創始。この時の花火師は鍵屋六代目篠原弥兵衛。一晩に上げた花火の数、仕掛け打ち上げ合わせて二十発内外。と言われている。しかし毎年恒例というわけではなく、両国周辺の料理屋や舟遊びの客が花火を打ち上げさせることが、名物となった。八月二十八日の川終いまで三ヵ月間、パトロンさえつけば、毎夜打ち上げられた。恒例になったのは明治以降のことでした。それでも昭和十三年から二十二年までは戦争のため中止でした。二十三年に復活したものの、交通事情の悪化を理由に三十六年を最後に中止されていた。昭和五十三年には隅田川花火大会として復活している。両国川開き当時、両国橋の上流が玉屋、下流が鍵屋であった。玉屋は鍵屋の弟子が独立して店を構えた。しかし玉屋は天保十四年(1843)将軍御成りの日に失火して処分され、鍵屋一軒になった。
厩橋(うまやばし)は江戸時代、幕府の厩舎が西岸にあったことから、このあたりの渡し舟は御厩(おんまい)の渡しと呼ばれていた。隅田川の渡しは何処もかなりの危険を伴ったようだが、この渡しは特に転覆事故が多かったという。お客を乗せすぎたことが原因とも言われているが、このため口の悪い江戸っ子は、「三途の渡し」と冷やかしたと言う、。明治七年民間の手により最初の木橋が架けられ、御厩橋(おんまいばし)と呼ばれた。今の橋は三代目で大震災後の昭和四年に再建されたもの。駒形堂は過去何度か焼失している。現在の駒形堂は昭和8年に再建されたもので、本来はもう少し南側にあった。駒形橋は大正十三年七月着工し昭和二年六月に完成した。そのため本来の場所だと道路の真ん中になってしまうので少し北に移動した。町名と橋の名前は駒形堂にちなんで付けられた。駒形堂の名前の由来は、
1)船からこのお堂を見るとまれで白い駒が駆けている様に見えたので、駒がけと言った所から駒形になった。
2)観音様へ寄進した絵馬が掛けられたので駒がけ堂と言ったのが駒形堂になった。
3)箱根山から駒形神をの御霊を分けて移したことに由来する(大日本地名辞典)
本尊は馬頭観音。広重描く駒形堂が有名、「君は今駒形あたりホトトギス」- 高尾太夫駒形道の左に浅草観音戒殺碑(都・有形民族文化財)が建っている。戒殺とは殺生を禁ずると言うことで、「これより川上にて漁をすることを禁ず」とある。つまりここの上流で観音様が網にかかったことをあらわす。元禄六年三月建立。この碑は土の中に埋もれていたもので、震災後に復元した。
雷門は正しくは風雷神門(ふうじんらいじんもん)といい、「門の名で見りゃ風神は居候」と江戸時代の川柳にあることから、その頃にはもう雷門と呼ばれていたことが解る。別名「神鳴門」または「神門」ともいった。風も雷も音がする神様なので神鳴門ということだそうだ。風雨の被害をよけ五穀豊穣を祈り、また伽藍守護の神でもあった。雷門の創建は定かではないが、浅草寺の伝承によると天慶五年(942)に平公雅が浅草寺本堂をはじめ堂塔伽藍を再建された際、その総門を駒形に建立したと伝えられている。(浅草寺史談抄・網野宥俊著)これが最初に立てられた門だとしている。広重・英泉・豊国・北渓など江戸の錦絵作家が描いた雷門は明和四年(1767)焼失。その後寛政七年(1795)三月に工費二千八百両を費やし再建。しかし慶応元年(1865)十二月、田原町の火事により焼失、しかしかろうじて二神像の頭部のみ難をまぬがれ、明治七年(1874)に体の部分を作り直し、彩色された。それから九十五年後昭和三十五年五月に現在の雷門が再建された。門の間口は六間半(11.8メートル)奥行三間(5.4メートル)切り妻様式の門。雷神の背丈2.21メートル。風神の背丈2.12メートルで雷神の方が大きい。歌麿描く雪景色の錦絵は寛政七年に描かれたもので、雷門再建時のものである。提灯は「志ん橋」となっていて、新橋の家根屋三左衛門奉納した物だからである。これは海産物商の奉納で、彼はそのまとめ役だったようだ。江戸末期の雷門を広重が描いているが、それによると門の左側に木戸があり、正面の扉は暮れ六(午後六時)に閉められ、夜間は木戸を利用していた。明治十九年に布張りの仮設雷門が出来、電飾が施された。