講師:浅草観光連盟会長 森田新太郎氏
浅草観光連盟史、戦後の浅草繁栄の道
今日は槐の会(えんじゅのかい)ということですが、大変いい名前ですね。浅草というのは、槐(えんじゅ)の木と深い関係があります。槐というのは、現在伝わっている槐の一番大きいのは三社様の境内の神楽殿と御輿蔵の間に一本の大木があります。銀杏の木と同じ位の大きさになっている。原産地は中国で、中国でも奥ゆかしい紫色の花をつけるということで、変豊の花と位置づけられています。日本の浅草へどう伝わったかはわからないが、三社の境内にあるということは、大変由緒深いと考えています。中国の宮廷で日本の右近の橘・左近の桜の二本の木が神殿の前に植えられていた。その前でいろいろなことが行われた大変高貴な木。
槐の木は、いいにおいを放ち、奥ゆかしい色の花を咲かすということで珍重されてきた。これが三社様の境内に昔からあります。神楽殿と御輿庫の間の木も誰が植えたというのでもないが、毎年毎年、樹生し、代々伝わっていく。枯れ果ててもまた新しい芽が生じて生えていく。直径4.5センチ、高さも30m近い。槐としても大木。枯れてもまた若葉が出て、浅草の土地で育っていったということは珍しい。隅田川の河口の低湿地帯でよく育ってきたなと考えます。三社様の一つの大きな伝統のいわれとなっている。同時に浅草神社が、約350年、浅草寺の歴史と並べて考えねばならないが、残念なことにはっきりした記述が残っていないのです。
浅草寺の起源も隅田川から金色の仏像が出現しましたが、住民には何が何だかわからない。文化人に見せたところ、これは大陸から伝わった聖観世音の尊像といわれ、小さな祠にお祭りしてお寺を広めていった。これが浅草寺の起源。豪士の自宅を借りて祠を建て、それに像をお祭りした。豪士というのは、三社の宮司のご先祖様ということになっています。現在まで血縁がつながっているとは限りません。現在、今の宮司の息子さんは山口県から養子として入ってきた方。おかみさんは仙台五箇條出身、柏木神社の娘さんと一緒になって後を継いでいる。今度、奉賛会(ほうさんかい)の敬神旅行で仙台の柏木神社へ行き、瑞巖寺などの旧跡を見て帰ってくる予定があります。そういう風に、三社の宮司の家計もいろいろ途切れているのです。三社の伝統は、他の土地の者が守っています。住民そのものも昔からの人ばかりが後をついでいるとはいえない、世変わりする度に変わっている。そういう意味でいうと、槐の木は長持ちして、丈夫でよく繁っている。三社の境内で一番目につくのはこの槐の木。銀杏よりシンボルになっていくのではと思います。
さて、戦後の浅草において、浅草観光連盟の活躍は抜きにはできません。浅草観光連盟の歴史で一番大きい問題は、戦争より焼土と化してしまったということ。関東大震災は大正12年。それから約20年、敗戦を迎えたその年の3月に東京大空襲で焼け野原になった。浅草の人間が経験したことのない震災とは比べものにならない被害であった。震災では、人が生き延びたが、戦争では根絶やしにされた。私は浅草小学校を昭和11年に出ているが、地域に住んでいた同窓の人は1割しか残らなかったのです。
一番の問題は、どうやって浅草の復興をはかるかである。生活が成り立たず、文化も根絶やしになっていく。台東区は当時、旧浅草区と旧下谷区の2つにわかれていた。今の台東区はなく、人口は約3万足らず。昭和30年で人口30万、浅草と下谷を合わせて。戦前は浅草区だけで人口30万を越えていた、しかし今では台東区全体でも30万を切っている。木造の2階建てがほとんどで、松屋と地下鉄の棟と区役所と、お風呂やは鉄筋コンクリートであった。焼け野原からの復興は、自分たちの復興であった。自分の家を確保することが大切で、居場所を確保し、自分が商いする場所を確保することが第一であった。浅草の人間が一番気づいたことは、人が集まるところであることが第一の要件であると、いろいろな祭りをやってきた。多かったのが復興祭りという催し、みな、民間のお金で手作りのイベントをやってきた。区も自治会の力もなかった。
その中で、第一回の三社祭は昭和23年から行われていたが、神輿ができたのは25年の一の宮、二の宮の新規調製を待たねばならなかった。浅草の人間の神輿に対する思いは強い。浅草神社奉賛会(ほうさんかい)は、23年に結成し、三社の復興、御輿の新調を第一目標にした。三の宮ができた年代は記憶が曖昧で27、8年。まだ、5,60年しかたっていないが、奉賛会も街の団体である。造った宮元もはっきりしない。現在は、記録するようになってきていますが、当時は事務局体制、記録庫、書庫、文庫もない。神輿蔵の中に何もかも入れておいた状態。三社の記録も、什器部品に至るまで神輿庫に入れて置いた。それが大空襲で焼けてしまった。浅草寺の本堂が焼けた。残ったのは御社殿だけ。浅草寺の方も本堂が焼け、伝法院が残った。
浅草文庫を設立したのも、天災地異があっても後世に伝えようという意味で作り、文庫も昭和52年に作った。旧東京電力の浅草サービスステーションの一室を借り、残った数少ない文献を集め始めた。それから現在この新しい建物を(浅草文庫-TEPCO浅草館)作り替え、また入れてもらっている。浅草に残っている物(昔の書物など)は自分のところに置かないで、なるべく寄付してくださいというのが浅草文庫のねらいである。しかし、30年経つのだがなかなかそろってこない。もっと独立した収蔵庫を作り、閲覧室も作りたいと思っているがあまり成果が上がっていない。民間団体なので財政の問題もある。浅草観光連盟の会費では思うようにいかない。入場料を戴いたとしてもたかが知れている。浅草の史跡記録を自分のところに私蔵しないで一カ所に集めてそれを専門家に委託してきちんと守っていく必要があるのではないか。しかし、東電で貸してもらっているのでありがたいと思っている。
戦後の三社祭については、三社だから3つなくてはということですが、当時の2つの神輿では全部の町会を回りきれない。朝6時に出て次の日の午前様になっていた。そして、28年に三の宮を造った。3つとも宮本御輿店のであるが、昔の神輿に比べ胴体がすんなりしていて、屋根のこう配もない。どっちがいいということではないが、時代の制作者の趣向の現れ。今後も500年、1000年と続いていって欲しい。
戦争で焼けた神輿は徳川時代初期のものだといわれている。350年。(槐の木のように時を神社の御社殿と共にくつわを並べていってほしい)これから、昭和30年から40年代に入ると、33年観音様の本堂が落慶できた。金龍の舞ができたが、これは観光連盟の発想でできた。高坂さん、カブキヤという装飾屋さんだった人のアイデアです。示現会(じげんえ)も浅草観光連盟で再興することになったが、その頃からの発想です。福聚の舞は39年、白鷺の舞は43年に始まりました。ようやく33年に本堂が落慶しできた時に、一大イベントに何かしようと始めたのが、金龍の舞であります。あのころは完全に地元のお祭りで、浅草寺をとりまく16カ町から4名ずつ出してもらって64名、それに観光連盟から入って約70名で金龍の舞を作った。今の金龍は3代目です。今後何十年続くか、いでたち、やり方がどこまで変わっていくか、千年経ってみたいもの。地元に住み着いている家々の有志で。はじめは長男でなくてはダメという町もあったが、今は有名無実。あと、春秋に定期的な訪問奉演をやっている。あと、自主奉演を年に要請に応じてやっているが、維持は大変。どんどん他から来る人が増えている。
ひとつのものをそのままの型を引き続きでやってくるのは困難なこと。金龍の舞でもたくさんの方面からの中学生、高校生が入ってきている。他から来て下さらねばやっていけない。金竜の舞自体でも物を売ったりしているが、各地の温泉地にあるようなものになってしまうかもしれない。地方へ行くと保存会があるが、そういうことをやって一つのグループにしていかないと、存続ができないからであろうと思う。気の毒だけど残念。
観光連盟本体が基礎をしっかりしないと行政は補助しませんから、芸能を維持していくことは重要なポイントになっていく。どう頭をしぼり、どう努力して維持し、後生につなげていくか大変なことだと思う。そういうソフトな面は、三社祭を中心に色濃く残っている。これには、頼みもしないのにあちこちからの人が入り込んでいる。3時4時から土産品を売っている。私が思うところでは、三社のお祭りも賃貸していると考えている。人出の勢いがない。これからは、よほど工夫しないと、くるとこまできたのではないかと思う。それぞれの町で大いにディスカッションして欲しい。
ソフトの面は最大の三社祭はもちろんのこと。金龍の舞、白鷺、福寿の舞。こうした浅草観光連盟が作り出した諸行事も飽和をすぎてきた。あの種の行事は一長一短の波長を繰り返し、本物は残るであろう。その中で祭りは残っている。さて、このような三社祭のような祭りの他にハード面はどうか。昭和54に都営地下鉄12号線、今の浅草線が開通した。押上、浅草橋間、それ以降新線は入ってこない。常磐新線の誘致運動はしたが、まだ出来上がらない。着工してから何年経ったでしょう。国際通りを通ることになっているが、開通オープンにはほど遠い。今後何年かかるか分からない。15年を経過している。あれだけ工事をのばされて、長い間やられたら、その両側の商店の迷惑はたまったものではない。お客様だって逃げていくだろう。交通機関が通るメリット以上にデメリットではないか?50年、100年を考えてどうだったであろうか?町全体からみると、必要無いと考えている方もいるでしょう。難しい世の中になっていくと思う。この先の悲観的財状が出尽くしている。これをどうやってプラスに転換するか。それぞれの通りや町に帰ってディスカッションし、勉強して欲しい。後に続く若い人たちの使命であろう。
浅草だけでも350年、浅草寺の本堂ができてから350年。これらを育てていく経済力と知恵と心構えを持ち、名案を発見していただきたい。ひとりよがりではダメ。大勢の人たちが参画できるような、これからの進路を定めていただかなければならないと考えています。
何か質問がある方はいらっしゃいませんか?
【質問】
浅草寺の33年の建て直しはどうやったのでしょうか?
【答】
(33年)燃えてから13年後、13年間の戦後の努力は浅草寺の皆さんは努力している。たとえば、燃えたのは3月10日未明、3月10日の夜、警戒警報が10時に鳴った。夜中に空襲警報が鳴り、B29が130機来て爆撃した。隅田川が目印で最初に下町一帯が狙われた。戦後努力したのは、10日の朝一面の焼け野原で白煙のさなか、再建の論議を始めている。これはお寺としては素早い対応だ。仮本堂を建てるにはどうしたかというと、強制区画、公園から坂本へかけて疎開地、緑地帯にして、火が燃え移らないようにしてあった。建物を壊して空き地を作った。当時の政府や東京都の指示だそうでしょうが。材木の買い集め、しょうしん寺へ行き、本堂を買ってきたんです。うまい具合に形も同じだった。それが仮本堂。その後、向影堂(ようごどう)といって別の役目をするようになった。町方より努力していたという感じがする。もうひとつは、初めての経験だが、地域全体が焼け野原で一番の中心の浅草寺が五重塔や山門や本堂が焼けてしまったということはかつてないことで、それだけに、復興に対する心を植え付けたと思う。あの時、浅草寺が奉賛会をつくった。浅草寺のお坊さんが托鉢して歩いた。一生懸命やり、浅草寺のお寺の基礎を固めていったということで、ありがたいことです。