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浅草歳時
コラム他
コラム:江戸時代の庶民が愛した味 初夏から夏はどじょう料理の旬
ようやく春が来たと思ったら、もう間 もなく初夏です。浅草で初夏の訪れを 告げるものといえば三社祭、そして旬 を迎えるどじょう。呑み助のこ隠居 も、もちろんこのどじょうが大好物の ようです。
主な生息地は千束の田んぼの中
ちょっとアンタ、人を勝手に呑み助 と決めつけないどくれ。ま、あながち間 違いとは言えないのがつらいとこだけどネ。
浅草には飯田屋さんと駒形どぜうさんと2つのどじょうの名店がある。駒形さんは享和元(180l)年、飯田屋さんは明治35年(l902)頃創業の老舗。「どぜう」って書くのは、駒形さんが看板を作る時、画数が良いってんで使ったのが他の店にも広まったんだ。ところで浅草にどじょう屋が多いからって、隅田川で獲れてたと思ってないかい? 江戸時代にはお酉様(鷲神社)の裏手の千束をはじめ、根岸から浅草の間にけっこう田んぽがあって、そこで獲れてたのが本当さ。
昔の川柳を読むと、家でもどじょうを調理していたらしい。どじょう汁は生きたまんま熱い鍋に放り込むが、何しろ生命力が強いから、ニョロニョロ大暴れ。「どじょうをばおまへころせと女房いひ」、気味悪がった女房はダンナ任せ。けれど「どじょう汁内儀食ったら忘れ得す」、調理はさせといて食うのは病みつきなんだから、男は女房には敵わねえな。
さて、かつば橋にある飯田屋さんは、みそ汁で飯を食わせる一膳飯屋から始まった。中でもどじょう汁が評判になって、そこからどじょう鍋、柳川鍋へと広がっていったんだ。上野の寛永寺と浅草寺をつなぐメインストリ ートにあった立地も良かったんだろうね。震災も戦災も乗り越えて、昭和20〜40年代、浅草が興行街として最も栄えた時代には、美空ひばりやエノケンをはじめ、多くの芸能人が店を訪れた。だけど飯田屋さんの座敷は誰でも分け隔てのない入れ込み式で、有名人でも特別扱いは一切無し。そんな喧騒に紛れて、名も無いお客として飲み食いできるのが、そういった人たちにも心地好かったのかもしれないね。
あの荷風先生もお気に入り
中でも贔展にしていたのが、作家の永井荷風先生。六区の踊り子さんたちの楽屋に適いがてら、ちょくちょく寄っては柳川鍋を頼んでいたらしい。当時、店にはくにさんという名物女中が居て、お偉い作家とも思わすに”好き者の先生的な扱いをして、先生もお気に入りだったんだ。四代目ご亭主の飯田龍生さんは昭和26年6月22日の生まれだが、先生の日記「断腸亭日乗』には、23日に店に来たと書いてあるんだとか。「先代とも親しくしていたので、たぶん『昨日、息子が生まれましたという報告はしたと思うんだけど、残念ながらそのことは触れられていないんですよ」と龍生さん。でも22日の日記には「駿雨」と記録があり、龍が生まれた時と同じ大雨だったことから龍生さんって名前になったんだから、ちゃーんとつながってるんだね。写真が大嫌いだった先生が、いい表清でお店の人たちと収まっているのが微笑ましいじゃないか。店の帳場には改装した今でも、荷風先生が好んでもたれかかった丸柱が残されていて、一見の価値ありだよ。
そんな庶民の食べ物だったどじょうもすっかり獲れる量が減って、あちこちにあったどじょう屋も今や都内で四軒しか残っていない。飯田屋さんも天然ものの仕入れなどに苦労が絶えないようだが、庶民的な値段で食べさせてくれるのが嬉しいね。カルシウムは日本の食用魚の中では一番豊富だというし、「どじょう一匹=ウナギー匹」と言われるほど栄養価が高いから、夏負けしないためにはうってつけの食材だ。
旬を迎える5〜8月、メスのどじょうは卵を抱えてる。これはこの時期だけだから一度食べてごらんよ、旨いもんだよ。それから飯田屋さんでは例年、三社祭の初日に店の衣替えをする。のれんが紺地のものから爽やかな白地に替わり、それでお神輿をお迎えしようって寸法だ。障子もよしす張りにかわって、まさに夏到来だね。畳より目の粗い籐敷の座敷にあぐらをかいて、甘辛いどじょう鍋を肴に日本酒で一杯やってると、江戸時代の町衆もこんな感じだったのかな..って、いい気持ちになってくるのさ。
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