観音堂(浅草寺本堂)
草創以来焼失と再建を繰り返した浅草寺は江戸幕府第三代将軍家光により慶安2年(1649)に再建されて、明治40年「国宝」に指定された。その後、関東大震災をも無事に免れ世間の話題となったが、昭和20年3月10日の東京大空襲で「国宝浅草寺本堂」は焼け落ちてしまった。しかしご本尊は前もって観音堂の真下地中3メートルのところに青銅製の「天水鉢」を埋め、その中へ安置されていたので安泰であった。ご本尊をお守りしたその天水鉢は今も現存しております。なお消失した本堂は戦後の昭和二十六年復興に着手、昭和33年には信徒各位の浄財により再建落慶しました。
浅草寺の起こり
浅草寺に伝わる『浅草寺縁起』によりますと、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が江戸浦(現在の駒形橋下流)で漁労中、一体の仏像を投網の中に得た。それを当地の豪族であった土師中知(はじのなかとも)に見せると、聖観世音菩薩の尊像であることを知り、中知は自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。これが浅草寺の草創の縁起であります。後に檜前浜成、竹成兄弟と土師中知の三人を祀ったのが「三社権現社」現在の浅草神社であります。本尊聖観世音菩薩像は後の、大化元年(645)に勝海上人が「秘仏」と定められ、やがて平安時代の初期、比叡山の3世天台座主、慈覚大師が、この秘仏に模して「お前立」のご本尊(現在のご開帳仏)を謹刻されました。のちに勝海上人は浅草寺の「開基」、慈覚大師は「中興開山」と仰がれるに至った。浅草寺は、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、戦国時代、江戸時代とそれぞれの時の人々により信奉され、また多くの民衆の祈願霊場ともなっていったのであります。東京では最古の寺で、山号は金龍山、通称浅草観音で親しまれている。
浅草寺の「絵馬」
浅草寺には多くの貴重な宝物が収蔵されているが、絵馬もその一つである。絵馬とは社寺への祈願やお礼のために生きた馬に替わって馬の絵を描いて奉納するものであったが、後には馬の絵に限らず一般絵画をも奉納されるようになっていた。浅草寺に奉納されている絵馬としては、谷文晁の「神馬」や菊池容斎「堀河夜討」、歌川国芳「一つ家」、柴田是真「茨木」など、いずれも江戸時代末期から明治初期にかけての著名な画家の手による代表的な作品。当時と言えば画家にとっては展示機会の少ない時代、浅草寺は参詣人も多いために一流画家への登竜門としての大きな役割をも果たしていた。なお、これらの絵馬は現在のところ一般公開はしていない。